『この神こそ』 Ⅱサムエル22章1節−23章7節

<前回までのあらすじ>
前回は、いつの時代のことか分かりません。しかし、後半にダビデが年老いて戦いに出られなくなったことが記されており (21:17)、前半には、次世代に残しておいてはいけない、共同体の中の負の遺産の解消について記されていました(21:1-14)。今日は、ダビデの神理解という尊い信仰の遺産についてです。

表題には「主がダビデのすべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に」とあります。その通りもともとはサウルから救い出された時にうたわれたものでした。しかし、この箇所に載せられているということは、ダビデが多くの敵に囲まれながらも、主とともに歩み通した「信仰の集大成」としての歌だと受け止めて良いでしょう。また詩篇18篇とも似ていますが、この箇所は「王国の継承」という観点から理解されるべきです。

彼はその生涯で何を発見し、どんな信仰を後代に継承しようとしているのでしょうか?それは、「主はわが巌(いわお)、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神(2)」と始まっています。そこにあるのは、どんなに敵に囲まれても私たちを守り、呼び求める時に救い出してくださる神様の姿です(2-7)。しかも、それは頭でわかっているだけの知識ではなくて、彼の生涯を通しての確信でもありました。

また次に登場するのは、敵を散らされる神様の姿です(8-20)。こうあります。「主は、矢を放って彼らを散らし、いなずまで彼らをかき乱された。こうして海の底が現れ、 地の基があらわにされた。主のとがめにより、その鼻の荒いいぶきによって(15-16)」出エジプトの出来事も連想させる内容です。目に見える敵に対してだけではありません。目には見えない霊的な敵サタンに対しても同じです。ですから過度に恐れてはいけません、神様はサタンよりも力強いお方なのです。

また神様は、私たちの行いに応じて報いられる神様です(21-18)。聖書には「きよい者にはきよく、曲がった者には、ねじ曲げる方(27)」とあります。しかし誰が神様の前に完全にきよくあることができるでしょう?ダビデも大きな罪を犯しました。大切なのは自分の罪と不完全さを認めて、神様の前で謙遜になることではないでしょうか?「あなたは悩む民を救われますが、高ぶる者に目を向けてこれを低くされます(28)」とある通りです。

そして神様は私たちを圧倒的な勝利者とし恵みを与えられます。神様は謙遜な者を愛し、高く引き上げてくださいます。なぜなら神様ご自身が謙遜なお方であるからです。聖書にもこうあります。「あなたの謙遜は私を大きくされます(36)」。ダビデはその謙遜を、油注がれたサウルに最後まで手を下さず、神様の裁きに任せることで実行しました。だから神様は「ダビデとそのすえに、とこしえに恵み(ヘセド)を施され (51)」たのです。

その永遠の契約は、イエス様において成就され、王国(神の国・家)の祝福はイエス様によって諸国の民にもたらされ、その完成はイエス様の再臨の時に訪れます。23章1〜7節は、単なるダビデの言葉ではなく預言的な言葉でした(2)。ダビデは言いました。「義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は、太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ(2-3)」。そのお方が、ダビデの子孫としてこの世に来られました。黙示録にはこうあります。「わたし(イエス)はダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である22:16(他マラキ4:2)」。神様はこのひとり子イエスを十字架につけられました。これこそ神様の謙遜です。この神様の謙遜と十字架の愛によって、私たちは神の国の民とされ、その恵みにあずかっているのです。その祝福にあずかる道はただ一つ。自分を低くし、イエスキリストという救いの門をくぐることなのです。