『危険な こっち見て!』 Ⅱサムエル14章24−33節

<前回までのあらすじ>
アブシャロムが兄アムノンを殺し、父ダビデは悲しみに暮れていましたが、3年の月日がたった頃ダビデの心は再びアブシャロムを求め始めました。しかし神と民の前に大きな罪を犯し、明確ない悔い改めのないアブシャロムを易々と受け入れることもできず、ダビデは葛藤していました。その様子を見たヨアブは知恵ある女を遣わし、彼女が賢く諭した結果、ダビデはもう一度アブシャロムをエルサレムに戻す決心をしました。

今回の箇所には、アブシャロムの外見について記されています。彼は、かつてのサウル王もそうでしたが(Ⅰサム9:2)、たいそう美しく「足の裏から頭の頂まで彼には非の打ちどころがなかった(25)」と言われています。特に髪の毛が豊かで、年の終わりに刈ると二百シェケル(2.6㎏)もありました。彼には3人の息子と1人の娘がいましたが、18章18節には「私の名を覚えてくれる息子が私にはいないから」とも言っていますが、亡くなったのか、絶縁したのか、確かなことはわかりません。◆娘の名はタマルでした。妹のタマルと同じ名前です。そしてその子も「非常に美しい娘(27)」とあります。美形の家系であったのでしょう。外見が強調されているのは、後に彼が「イスラエルの民の心を盗む(15:6)」ことの前触れとなっています。「人は見た目が9割」という本もありますが、人は外見に惹かれ(騙され)やすいものです。彼は帰ってから、2年間エルサレムに住みましたが、ダビデには一度も会えませんでした。二人はまるで地球の反対側に住んでいるように遠かったのです。

そこでアブシャロムは、自分をエルサレムに戻した立役者、ヨアブに頼ろうとしました。彼は二度、ヨアブのもとに遣いを送りましたが、なんの応答もありませんでした。どうしてでしょう?私は個人的にこう考えます。ヨアブは、ダビデの「アブシャロムに会いたい」という気持ちを理解していました。でも同時に、神と民の前に重大な罪を犯した彼を、そう簡単に受け入れられないダビデの葛藤も理解していました。だから、これから先のことは、自分が口を出すことではなくダビデにお委せしよう、と思っていたのではないでしょうか?二人とも決して、意地悪からアブシャロムを無視していたわけではありません。◆しかしアブシャロムは、そこまで人の心を理解するほど大人ではありませんでした。そして非常に子供っぽいやり方で注目を集めようとしたのです。彼は自分の家来に言いました。「見よ。ヨアブの畑は私の畑のそばにあり、そこには大麦が植えてある。行ってそれに火をつけよ」。そして血相を変え「なぜそんなことをするのか」と問うヨアブに対してこう言いました。「ここに来てくれと言わせたではないか(でもあなたは来てくれなかった)。今、私は王の顔を拝したい。もし私に咎があるなら、王に殺されてもかまわない。」と。彼は自分の気持ちしか見えておらず、そのためならなんでもする危険な男でした。

結果的に、これはうまくいきました。ダビデとアブシャロムの再会は実現しました。アブシャロムは王のところに来て、ひれ伏して礼をしました。そしてダビデはアブシャロムに口づけしました。この結果を見て、ある人は言うかもしれません。結果的に成功したんだから、アブシャロムの方法は正しかったのではないですか?しかし断じてそんなことはありません!◆私たちは、自分の要求を通すために、もしくは自分の気持ちを伝えるために、わざと相手を困らせたり、挑発するようなことをするべきではありません。それは非常に子供っぽく危険な方法です。一時的にうまく行っても、結果的には深い断絶を残し、自身の信頼を失います。私たちはむしろ、一人の大人として、謙遜に、忍耐しつつ、自分の気持ちを伝え続けるべきなのです。