『祈ること、ゆだねること』 Ⅱサムエル12章15−23節

<前回までのあらすじ>
ナタンの「あなたがその男です。You are the man!」との鋭い指摘に、ダビデはついに「私は主に対して罪を犯した」と罪の告白をしました。それによって彼の罪は赦されました(13)。しかし罪が赦されることと、チャラにはなることとは違います。罪の赦しは誰かが犠牲を払うまで完了しません(通常は動物の血でしたが、人の命に対しては人の命の犠牲が必要でした)。私たちのためにはイエス様が十字架にかかってくださいましたが、旧約の時代はそうではありませんでした。また罪は赦されても「歪み」は残ります。ダビデの不倫により、家族関係は大きく歪み、後の国家分裂にまで繋がっていきました。そういったことを正しく認識していたら、ダビデは決して一時の快楽に身をゆだねなかったでしょう。

ダビデの罪の代償もまた大きなものでした。生まれてきた「わが子」は病気になってしまいました。生まれてきて、どれくらい経って病気になったのか、詳しくはわかりません。もしかしたら生後間もなくだったかもしれませんし、しばらく一緒に過ごし、ほほえみをかわし、すっかり情が移ってからだったのかもしれません。その間、ダビデは、断食して、引きこもり、地にひれ伏して祈り続けました。◆でも、病気になって7日目に、その子は亡くなってしまいました。家来たちは「王は何か悪いことをされるかもしれない」と思い、そのことを告げられないでいました。「悪いこと」とは、ダビデは自暴自棄になって暴れるとか、キレるということではなく、自殺するかもしれないと思ったということではないでしょうか?それくらい、ダビデの落ち込みようが激しく、真剣に祈っていたことを、家来たちは知っていました。

それにしても、なぜその子が死ななければならなかったのでしょうか。その答えは誰にも分かりません。本当に胸の痛む出来事です。ある人は、こう思うかもしれません。「罪を犯したのはダビデじゃないのですか?なぜ、この子が死ななければいけなかったのですか?」その通りです!でもそこに疑問を覚えるなら、私たちはもう一度「なぜイエス様が十字架で死なれたのか」を考えてみる必要があります。イエス様もまた何の罪もないのに、私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。私たちはそのことを本当に重く受け止め、胸を痛めているでしょうか。◆試練は、決して喜ばしいものではなく、かえって悲しく思えるのですが、それによって悔い改めの心が呼び覚まされ、真の礼拝へと私たちを引き戻します。聖書にはこうあります。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい(黙示3:19)」。それは苦く、辛い経験ですが、その先に本当の平安があります。ダビデは立ち上がりました!私たちも悔い改めたら、襟を正し、立ち上がる必要があります。でなければ、払われた犠牲(命)が無駄になってしまいます。

また今日の箇所からは、祈りについても教えられます。ダビデは最初「もしかしたら主は、思い直してくださるかもしれない」と断食し、ひれ伏して祈りましたが(参:ヨナ3:9)、結果が現れた時には起き上がり食事をしました。それは「偉大な神さまには失敗はなく、常に最善を行なってくださる」との信仰をもって、結果を受け止めたからです。◆祈りの力か、神の主権かと、いった議論がありますが、どちらかだけではありません。私たちは最善をおこなってくださる神様を信頼して祈りつつも、結果が現れる時、それを神様の最善として受け止めます。最初から「祈っても無駄」と諦めるのも、いつまでも「納得いかない」と自分の感情にこだわり続けるのも間違いです。心から信じて祈り、結果を委ねるのが神中心の祈りです(マタ26:39)。