『私は主に対して罪を犯した。』 Ⅱサムエル12章7−14節

<前回までのあらすじ>
ダビデは、自分の部下であるヘテ人ウリヤの妻と寝て、彼女は身ごもりました。しかも、ダビデは自分の罪をもみ消そうと、ウリヤを激戦地に送り出し、殺してしまいました。そこに預言者ナタンが現れて、たとえ話をしました。それを聞いたダビデが烈火のごとく怒り「そんな男は死刑だ」と言いましたが、ナタンは逆に「あなたがその男です。You are the man!」と鋭く指摘しました。

ナタンはまず、ダビデの受けてきた恵みの数々を語りました。昔のダビデは、箸にも棒にも引っかからない、ただの羊飼いでした。サムエルが新しい王を探しに家に来た時も、父のエッサイは「まさかこの子ではあるまい」と思い、最後までダビデを紹介しようとしませんでした。その彼が、ただ主の一方的な恵みとあわれみによって油注がれ、王とされたのです(Ⅰサム16章)。◆その後もサウルによって命を狙われましたが、主は常にダビデを助け、王権をサウルからダビデに完全に渡し、十分な妻も与えられました(是非ではなく、十分であったという意味)。そして、イスラエルとユダに分裂状態だった王国は統一され、統治は磐石なものとなりました。「それでも少ないというのなら、 わたし(主)はあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう(8)。」それなのにダビデは、この主を信頼せず、自分の欲望に従い、主の御心をそこないました。これは主へのあなどりであり、裏切りの罪でした。

罪には「甚大な結果」が伴います。私たちは、新約時代の視点から、旧約聖書を読みます。すなわち、イエスキリストの十字架の血による、完全な赦し(贖いの恵み)を与えられた者として、この箇所を読むのです。しかし、そもそも、なぜイエス様は十字架で血を流さなければいけなかったのでしょうか?それは罪の赦しには犠牲(血)が伴うからです。特に人命が故意に奪われた時には、「いのちにはいのちで(出エジ21:23)」と律法で定められている通り、命で償わなければなりませんでした。罪は本来、それほど重い問題なのです。軽く扱ってはいけません。◆罪は、放っておいてもチャラにはなりません。誰かが犠牲を払うまではなくならないのです。私たちのためには、神のひとり子イエスが、一度きりで、完全な代価を支払ってくださいましたが、旧約の時代はそうではありません。このダビデの罪の結果、なんと生まれてくる子が亡くなってしまうのです(詳細次回)。また罪が赦されたとしても、罪によって生じた「関係の歪み」は残るのです。ダビデの不倫は、家族に深刻な歪みを残しました。ナタンは「白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる」と預言しましたが、それは息子のアブシャロムによって行われます(16:20-23)。

もしもダビデが、そういったことを正しく認識していたら、決してひと時の快楽に身をゆだねなかったでしょう。負の影響の方がはるかに大きく、長く続くのです。そこで初めて自分の犯した罪の大きさを知るのでしょう。それからでも遅くありません。悔い改めた方が、はるかに幸せです。なぜなら罪を隠して生きること自体が大きな苦しみで、その苦しみは骨の髄をも枯らすからです(32篇)。◆でも神と人の前で罪を告白するなら、私たちの内に新しい霊がつくられ、喜びが戻ってきます(51篇)。その喜びの方が、罪の苦しみよりも、はるかに大きいのです!ダビデはナタンに「私は主に対して罪を犯した」と告白しました。決して完璧ではないダビデですが、やはり信仰の模範です。深刻な罪を犯しても、気づいた時(人から指摘された時)に、素直に認め、神と人に「ごめんなさい」と言えますように。それが回復の一歩です。