2017年2月23日木曜日

『あなたがその男です。You are the man!』 Ⅱサムエル12章1−7a節

<前回までのあらすじ>
アモンとの戦いの際、ダビデは夕方まで寝て、屋上を散歩していました。偶然、一人の美しい女性が、水浴びをしているのを見てしまいました。調べてみると、自分の部下であり、勇士でもあるヘテ人ウリヤの妻だと分かりました。しかしダビデは欲望を抑えきれず、彼女と寝てしまいました。その結果、彼女は身ごもりました。それでもダビデは自分の罪をもみ消そうとして、ウリヤを激戦地に送り出し、殺してしまいました。彼のしたことは主のみ心をそこないました。

ここまでは完璧に、ダビデの思い通りに事が運んでいました。しかし誰も見ていなくても、見ておられるお方がいました。ダビデの前に、一人の男が現れました。預言者のナタンでした。彼はダビデに一つのたとえ話をしました。「ある町に、富んでいる人と貧しい人がいました。富んでいる人のところにお客さんが来た時、彼は自分の羊や牛の群れから取って調理することを惜しみ、貧しい人が、まるで自分の娘同然に可愛がり、寝食を共にしていた、たった一匹の子羊を取り上げて調理してしまいました。」◆それを聞いたダビデは激怒して言いました。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。その男は憐れみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない(12:5-6)。」この“四倍にして”は、旧約聖書の贖い(罪の赦し)の律法に基づいての言及でした(出22:1)。しかもダビデは「主は生きておられる」と、主に誓って言っています。このように、このたとえ話を「他人事」として聞いているうちは、正しい善悪の判断をする事ができました。しかし、その同じ彼が、ナタンに「あなたがその男です。You are the man!」と言われるまでは、その話を「自分事」として聞く事ができなかったのです。

ダビデはなぜ、このたとえ話を聞いて、激しい怒りを燃やしたのでしょう?素直に読めば、ダビデは貧しい人に同情し、富んでいる人の、あまりにも「憐れみのない振る舞い」に激怒したのです。人間の心には、深い闇があります。自分の懐(ふところ)に、どれだけ溜め込んでも、何の感謝もせず、わずかでも出し惜しみするのに、人が所有することには敏感で、嫉妬し、人が大切なものを失っても何も感じず、そうなっても構わないと心のどこかで思っているのです。ダビデは、かつて自分自身も貧しい羊飼いだったので、この貧しい人に同情し、激怒しました。◆でもダビデは、いつのまにか自分も豊かになり、この金持ちと同じことをしているということには、目が塞がれていたのです。聖書にはこうあります。「ですから地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです(コロ3:5)」。欲望も偶像も同じで、私たちの心の目を塞ぎ、罪の自覚を麻痺させ、悔改める心さえ奪ってしまうのです。

また少し意地悪く読むなら、ダビデは激しく怒ることで、カムフラージュしたのかもしれません。人は重篤な罪を隠している時にこそ、やたらと正義を振りかざしたり、人をさばいたりするものです。先の霊的無感覚も、このカムフラージュも、どちらも恐ろしい罪の性質であることには変わりありません。◆あなたは大丈夫ですか?あなたが誰か(何か)に、激しく怒っている時、自分の心の中にも、同じ闇があることはないでしょうか?イエス様は「人の目の中の塵に気づくのに、なぜ自分の目の中の梁(はり)に気がつかないのか?」とおっしゃられました。誰かを指差す前に、「あなたがその男です。You are the man!」との、細き主の御声を聞く事ができますように。


2017年2月9日木曜日

『しかし、主の御心をそこなった』 Ⅱサムエル11章18−27節

<前回までのあらすじ>
前回は、本当に涙ぐましいほど健気(けなげ)なウリヤの忠誠心と、その忠誠心さえも利用して自分の罪を隠蔽しようとするダビデの邪(よこしま)が、明(めい)と暗(あん)をなしていました。最終的にダビデは、ウリヤの暗殺を指示する手紙をウリヤ本人に持たせ送り出しました。その手紙を受け取ったヨアブはダビデの指示通り淡々とことを運び、ウリヤはあっけなく死んでしまいました。

ヨアブはそのことをダビデに報告するために、使者に命じて言いました。「もし王が怒りを発して、おまえに『なぜ、あなたがたはそんなに町に近づいて戦ったのか』と言われたら『あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました』と言いなさい。」ヨアブは将軍ですから、当然、敗戦や部隊の損失、部下の死に関しては責任を問われる立場です。ヨアブは心の何処かで、それを恐れていました。そこでもしダビデ王が怒りだしたら、最後に「ヘテ人ウリヤも死にました」と言いなさいと命じたのです。ヨアブは手紙を読んで、気づいていました。それこそがビデの目的であり、ダビデを一番喜ばせることだということを。◆そして使者はダビデのところに行って、戦況を報告し、最後にこう付け加えることも忘れませんでした。「あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。」ダビデはそれを聞いて言いました。「ヨアブにこう言わなければならない『このことで心配するな』あなたは、彼を力づけなさい。」いっけん、部下思いの優しい王様の言葉のように聞こえますが、何とも不気味なやり取りです。一人の部下が戦「死」したのです。彼は今まで命がけでイスラエルと王様を守ってきた名だたる勇士でした。その誇り高き名が、それぞれの思惑の中で、もてあそばれているのです。誰がこのウリヤの死を心から嘆き悲しんでくれるのでしょうか?

せめてもの慰めは、ウリヤの妻バテ・シェバが、心から夫の死を悲しんだことです。聖書にはこうあります。「ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ」。この悲しみだけは、偽りがなく、真実でした(と信じたいものです)。またイエス様の系図の中には、こうあります。「エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ…(マタイ1章6節)」。こうしてバテ・シェバは、永遠にウリヤの妻として、聖書に記載されることになったのです。◆バテ・シェバと関係を持ち、男の子が生まれるまでの10ヶ月間、ダビデはどんな気持ちだったのでしょう?うまくやりこめたと思ったのでしょうか?それとも罪悪感に苦しんでいたのでしょうか?喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を家に迎え入れました。人々は、部下思いの王様だと思ったかもしれません。でも全ては「偽善」「作り話」「出来レース」でした。人の目は誤魔化せても、神様の目を誤魔化すことはできません。「しかしダビデの行ったことは主のみこころをそこなった」。この出来事が家庭の歪(ゆが)みとなり、国家の歪みとなるのです。

あなたは誰の心をそこなうことを恐れて生きているでしょうか?ダビデは人にバレることを恐れ「主のみこころをそこなって」しまいました。聖書にはこうあります「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい(マタイ10章28節)」たとえ自分の計画通り、とんとん拍子に進んだとしても、ストップがかからなくても、神様が許可しておられるのではありません。罪は罪です。あなたはその責任を問われます。今すぐその道を離れ、方向転換できますように。


2017年1月26日木曜日

『ヘテ人ウリヤも戦死した。』 Ⅱサムエル11章6−17節

<前回までのあらすじ>前回は「ダビデの油断」と題して学びました。アモンとの戦いの際、なぜかダビデは夕暮れまで王宮で寝ていました。そして夕涼みに出たところ、一人の女性が水浴びをしているのが見えました。しかも彼女は非常に美しかった。ダビデが彼女について調べると、彼女は自分の部下で、今まさに戦いに出ているヘテ人ウリヤの妻だとわかりました。しかしダビデは自分の気持ちを抑えられず、彼女と寝てしまいました。前回の最後にはこうありました「私はみごもりました。」

バテシェバの懐妊の知らせを受け、ダビデは隠蔽工作に奔走します。彼は早速ウリヤを戦場から呼び寄せ、戦況を尋ねました。でも目的はそこにはあらず、一刻も早くウリヤを家に返し、妊娠のアリバイ作りをすることでした。ダビデは言いました「家に帰って、あなたの足を洗いなさい」。しかしウリヤは家に帰らず、王宮の門で家来たちと共に眠りました。翌朝、その理由をこう説明しました。「神の箱も…主人(ダビデ)の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り…妻と寝ることができましょうか。…私は決してそのようなことをいたしません。」◆感動的な自分の部下の言葉です。しかしダビデはハッと我に返るどころか、さらに罪に罪を重ねます。ウリヤに酒を飲ませ、酔っ払わせた上で、彼を家に返そうとしたのです。何という欺きでしょう!しかしウリヤはそれでも家に帰らず、前日同様、他の家来たちと一緒に寝ました。翌朝ダビデはヨアブに手紙を書きました。内容は「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ」。しかもダビデはその手紙をウリヤに持たせたのです。あまりにも卑劣で、ウリヤが可哀想すぎます。そしてヨアブは、その手紙を受け取り、書かれている通りに粛々と行いました。ヨアブが、ダビデの弱みを握った瞬間でした。

結果は「ヘテ人ウリヤも戦死した」の一言で片付けられています。淡々とした表現が、命がけで忠誠を尽くしながらも、その王によって命を奪われてしまったウリヤの無念を物語っているかのようです。今回だけではなく、彼は今までの人生、ずっと忠誠を尽くしてきました。23章39節には、ダビデの勇士37人のリストがあり、そこにウリヤの名も入っています。だからこそ信頼され、王宮のすぐ近くに住むことも許されたのです。しかしダビデは、ウリヤの忠誠を利用し、あたかも虫けらのように殺したのです。◆ダビデは自分の目的を達成しました。「完璧な偽装殺人」のつもりでした。ここまであっという間です。ダビデともあろう信仰の人が、坂を転げ落ちるように、嘘を嘘で塗り固め、殺人まで犯してしまったのです。最初はちょっとした出来心だったかもしれません。でも自分の感情にブレーキをかけず、神様の前で悔い改めず、方向転換しないと、やがて悔い改める機会まで失い、落ちるところまで落ちて、ついには死(あらゆる関係と人生の破綻)に至ってしまうのです。

あなたは大丈夫でしょうか?あなたが守ろうとしているのは何でしょう?自分のプライドですか?人からどう思われるかでしょうか?でも私たちには、もっと守らなければいけないものがあります。それは「神様との生きた関係(いのち)」です。それは、悔い改めによって与えられます。「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます(Ⅰヨハネ1:9)」。隠すのではなく、正直になって告白することができますように。それだけが、この不気味な、罪と死の力に、打ち勝つ唯一の方法なのです。


2017年1月12日木曜日

『ダビデの油断』 Ⅱサムエル11章1−5節

<前回までのあらすじ>
ダビデは絶大な力と権力を手にしても、正しく、憐れみ深い王様でした。サウルの孫メフィボシェテを我が子同然に扱い、お世話になったアモンの王ナハシュが亡くなった時には、その息子のハヌンにも真実を尽くそうと願いました。しかしハヌンが、ダビデが部下(弔問団)にひどい侮辱を加えたことから、アラム部族も巻きこんだ大戦争となり、結果は、ダビデ側の大勝利に終わりました。

その後アラムとはイスラエルと和を講じましたが(10:19)、アモンとの戦いは続きました。イスラエル軍は再び隊を整え、年明けにアモンと戦い、壊滅的な打撃を与えました。しかしなぜか、ダビデは自分の王宮のあるエルサレムにとどまっていました。そればかりか自分の部下が命を懸けて戦っている時に、夕暮れまで寝ていたのです(2)。自分が直接、出て行かなくても良いほどに、盤石な体制が整っていたという意味では良かったのですが、この「油断」が「心の隙(すき)」となり、罪の温床となりました。◆聖書の中の箴言には、怠惰に関する戒めが沢山出てきます。「なまけ者の欲望はその身を殺す。その手が働くことを拒むからだ。この者は一日中、自分の欲望に明け暮れている。しかし、正しい人は人に与えて惜しまない。(21:25-26)」、「戸がちょうつがいで回転するように、なまけ者は寝台の上でころがる。(26:14)」

そのダビデが、夕暮れ時に起き上がり、のんきに屋上を散歩していた時のことです、一人の女性が、体を洗っているのが見えました。しかも彼女は「非常に美しかった(2)」。ダビデは、自分の好奇心を抑えられず、すぐに人をやって彼女のことを調べさせました。すると彼女が、自分の部下ウリヤの妻バテ・シェバであることがわかりました。人妻です。それなのに、ダビデは自分の気持ち(欲望)にブレーキをかけられず、使いのものをやって彼女を召し入れ、彼女と寝たのです。ほどなくして、彼女から「みごもりました」との連絡が入りました(5)。◆この一連の出来事に、バデ・シェバの気持ちは全く出てきません。ある人は「彼女が抵抗すればよかったのに」と思うかもしれませんが、当時の王様と庶民の関係では、おそらくできなかったのでしょう。またある人は、人(この場合は王宮)から見えるところで肌を見せること自体が間違っていると非難します。確かに、女性側が、弱い男性に配慮することは大切ですが、当時の住宅事情もわからないので、単純に責めることはできません。

きっかけは油断でした。今までのように必死に祈ることもなくなり、戦いがあっても国は安定していました。そうしたちょっとした気の緩みから、誘惑が入り込んできました。そして、その誘惑が膨らみ、恐ろしい殺人事件、また国の分裂へと発展していったのです。聖書にはこうあります。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。(創世記4:7)」「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:14-15)」◆あなたは大丈夫ですか?あなたは怠惰ではないかもしれません。でも真剣に神様に祈ったり、頼ったりすることがなくなっているなら、それも「油断」ではないでしょうか?そこから欲望(偽りの神)が入ってきます。その「神」はあなたに囁きます。「私に従ったら、もっと幸せになるよ。私は、ヤハウェ(まことの神)よりあなたを満たすことができるよ」。それは異性や、成功や、お金だったり…。そして神様そっちのけで、それを追いかけさせるのです。でも偽りの満足(幻想)は、やがて弾けるのです。そのときになって全てを失うのではなく、今まことの神に立ち返ることができますように。

2016年12月15日木曜日

『恵みを、警戒せず』 Ⅱサムエル10章1−19節

<前回までのあらすじ>ダビデが国を統一し、支配が四方八方に広がり、ついにアブラハム契約の成就を見た時に、ダビデは何をしようと思ったでしょうか?人は権力を手にした時、本性が現れると言われていますが、ダビデはその勢いのピークの時に「サウルの家のものに神の恵みを施したい(3)」と願ったのです。かつての政敵であり、王位継承者のライバルとなりかねない相手です。でも、ダビデは、親友ヨナタンとの約束を果たすため、また神様からの一方的な恵みによって、羊飼いから王とされた者として、その神の恵みを、メフィボシェテにも施したかったのです。

今日の箇所にも、そのダビデの寛大さが表れています。彼は、隣国アモンの王ナハシュが死んだ時、こう言いました。「ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう。彼の父が私に真実を尽くしてくれたように(2)」。ダビデとナハシュがどういう関係だったのか、詳しくは分かりません。もしかしたら、ナハシュの時代、サウル率いるイスラエル軍は、アモンをひどく攻めたので(Ⅰサム11章)、そのサウルとダビデが仲たがいしていた時、ナハシュがダビデを援助していたのかもしれません。とにかく、このダビデの申し出は、100パーセントの善意と感謝から出たものでした。◆しかし、アモンのつかさたちは、ダビデの善意を警戒しました。そしてダビデが弔問団を送った時、新しい王ハヌンにこうアドバイスしたのです「ダビデを信じてはいけません。彼はこの町を調べ、後から攻撃するために、家来をあなたのところによこしたのです(意訳:3節)」。それを信じたハヌンは、ひどい侮辱をもって、ダビデの家来を送り返しました。すなわち、ダビデの家来たちを捕らえ、彼らのひげを半分そり落とし、その衣を半分に切って尻のあたりまでにして、はずかしめたのです。

ダビデにとって、自分の家来の恥は、自分の恥でした。ダビデは、恥ずかしくて、帰って来られない家来たちを気遣い「ひげが伸びるまで、エリコにとどまり、それから帰りなさい(5)」と声をかけました。それと同時に、アモンに対して激しく怒りました。それを察知したアモンは、アラムとの連合軍を形成し、イスラエルを迎え撃つ準備をしました。◆この時、力を発揮したのが将軍ヨアブでした。彼は精鋭部隊を招集し(9)、それを賢く配置して、敵を追い払いました (10-14)。しかしアラム軍は、隊を整え、再びイスラエルに挑んできました。すると今度はダビデ自身が立ち上がり、全イスラエルを招集し、敵に対して壊滅的な打撃を与えました。それを知ったアラムの諸王は、「イスラエルとの和を講じ、彼らのしもべとなりました(19)」。

ここから何を学ぶことができるのでしょうか?ダビデは「ハヌンに真実を尽くそう」と言いましたが、ここで「真実」と訳されている言葉はヘセド(חֶסֶד)といって「恵み」を意味します。前回も同じ言葉が登場しました。ダビデは「サウルの家のものに神の恵みを施したい(9:3)」と言いましたが、この「恵み」と同じ言葉です。つまりアモンの王ハヌンは、ダビデが与えたいと願った「恵み」を警戒し、かえって侮辱して、追い返してしまったのです。◆私たちも、同じことをしていないでしょうか?神様は、私たちに恵みを与えたいと願っておられるのに、私たちの側で警戒し、疑い、侮辱をもってはねのけてしまっていないでしょうか?2000年前も同じでした。神様が私たちを救うために、この世に遣わしてくださった、ひとり子イエスを、人々は十字架につけて殺してしまったのです。どうか私たちが、神様の恵みも、人からの優しさも、疑わず素直に受け入れ、平和をつくる者となることができますように。


2016年12月1日木曜日

『神の恵みを施したい』 Ⅱサムエル9章1−13節

<前回までのあらすじ>ダビデが国を統一し、神の箱をエルサレムに安置してから、イスラエルは、エルサレムを中心として東西南北に急拡大しました。それは、神様が、アブラハムと交わされた約束の成就でした。「その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。『わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。』創世記18:15」ダビデも、そのことをよく理解し、勝利を自分の手柄や栄光とせず、戦利品を聖別して主にお捧げしました。

ダビデの賢さは、勝利に酔いしれないところにありました。前回も、勝利の栄光を自分のものとするのではなく主にお返ししましたが、今日の箇所ではサウル家に対するあわれみという形で現れています。ダビデはこう言いました。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。(1)」サウルといえば、ダビデの命を長年にわたって、しつこく、何度も、つけ狙った政敵でした。また、その子孫となれば、王位継承という意味で、ダビデの立場を脅かしかねない存在でした。◆しかし、よく読むと「(サウルの息子でダビデの親友の)ヨナタンのために」の一言があります。つまりダビデはヨナタンとかつて交わした契約のゆえに、そうしたかったのです。このように、聖書においては、神と人、もしくは人と人との約束(契約)が、非常に重要な意味を持つことがわかります。かつてダビデとヨナタンも契約を交わしました。Ⅰサムエル記20章14-15節にこうあります。「たとい私(ヨナタン)が死ぬようなことがあっても、あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。」

ですがダビデのこの言葉が引っかかります。「私はその(サウルの家の)者に…神の恵みを施したい。(7)」いくらダビデであっても、人であることには変わりありません。それなのに、なぜ彼は「神の恵みを施したい」と言ったのでしょうか?これは彼の傲慢でしょうか?いいえ。彼は、かつて神様の一方的な恵みにより、羊飼いから王様にされた者として、自分も、その神様の恵みを、施すものになりたいと願ったのです。◆メフィボシェテは、人の目から見れば、没落した王家の子孫でした。しかも彼の両足はなえていました。その状況をメフィボシェテ自身がこう表現しています。「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。(8)」犬とは、当時、人を卑(いや)しんで使う言葉でした。でもダビデは、一方的な恵みを受けた者として、ヨナタンの真実な友情に報いるためにも、そうしたかったのです。その恵みによって、メフィボシェテは、祖父サウルの地所を全て返され、ダビデと同じ食卓で、自由に食事するものとなりました。

私たちも似ているのではないでしょうか。神様から見たわたしたちとは、死んだ犬どころか、アリよりも小さな者であり、霊的には罪過の中に死んだ者でした。しかし神様は、そんな私たちを心からあわれみ、真実な友として、ひとり子イエスを与え、十字架につけて、闇の中から光に、死からいのちに移して、救ってくださいました。そして、神の子とし、主イエスとの親しい食事(交わり)に生きるものとされました。(黙示3:20)◆その一方的な恵みに預かった者として、あなたは、その恵みを周りの方々に分かち合う者となっているでしょうか?それとも独り占めしているでしょうか?ダビデにとって、メフィボシェテは、助けても何の得にもならないような存在でした。でも恵みを受けたものとして、ダビデは当然のことをしたのです。私たちも恵みを受けた者として、あわれみ深い者となることができますように。


2016年11月10日木曜日

『主に聖別してささげた』 Ⅱサムエル8章1−18節

<前回までのあらすじ>
エルサレム遷都と契約の箱の移管が終わり、国が落ち着いた時、ダビデは預言者ナタンに神殿建設の思いを打ち明けました。それは最初ナタンにも良いことのように思えましたが、その夜、主の言葉がナタンにありました。それは簡単にいうと、「あなたは、わたしのために神殿を建てるつもりでいるかもしれないが、あなたが、わたしのために家を建てるのではない。わたしが、あなたの家を建てるのだ」という内容でした。ハッと我に帰り、謙遜にされるダビデでした。

そのイスラエルが、今日の箇所で一気に拡大します。裏の図2に、その様子を見ることができます。サウルの時代に王政が始まりましたが、その統治はまだまだ限定的でした。しかしダビデが、契約の箱を首都に移管し、みこころを中心とした統治を始めるや、その支配は周辺地域と諸外国に広がりました。これは神様が、アブラハムに与えられた契約の成就でした。「その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。『わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、 ユーフラテス川まで。』創世記18:15」◆図1を見ると、実際にその影響力が、エジプトの川からユーフラテス川まで及んでいたことがわかります。まさに四方八方への広がりです。ペリシテ人はエルサレムの西、モアブは東、ツォバとハマテは北、アラムは北東、エドム人は南側です。その広がりは、イエス様の「神の国(直訳:神の支配)」にも重ねて見ることができます。「人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。ルカ13:29」「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。使徒1:8」

この祝福は、決してダビデ個人の、能力や熱心だけによるものではありませんでした。聖書は重ねて、この勝利をもたらしたのは、あくまで「主ご自身」であると言っています。5節「こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」13節「このように主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」そのことを一番よくわかっていたのはダビデ自身でしょう。彼は多くの領土や戦利品、そして貢(みつぎ)物を得ながらも、決して傲慢にならず、それを主に捧げ、地道に神殿建設の準備を継続したのです。11節にはこうあります。「ダビデ王は、それをもまた、彼の征服したすべての国々から取って聖別する銀や金とともに主に聖別してささげた。」◆そのダビデの統治は、ひたすら主のみこころを実現するためのものでした。15節「ダビデはイスラエルの全部を治め、その民のすべての者に正しいさばきを行った」。この「正しいさばき」とは、「主のみこころに沿って、適切に国を治めた」という意味です。決して、私利私欲を満足させるためではなく、神様の義とみこころが、この地上にもなる(実現する)ことを切に願って治めたのです。そして前回も話したように、ダビデは主のしもべとして、そのための通り良き管(くだ)となることを望んだのです。まさに主の祈りの「御国を来らせたまえ」です。

あなたはどうでしょうか。何かで成功したり、収入や祝福に預かったりする時、それを全部自分のもの(栄光)にしていませんか?それとも、その中から、主に聖別して捧げることによって、主の恵みのおかげであることを告白し、主に栄光をきしているでしょうか?また、あなたの究極の目的は、自分の成功ですか?それとも、自分を通して「神の国」が東西南北に広がることでしょうか? あなたが神の国とその義とを、まず第一に求めるとき、主はあなたを祝福し、成功させてくださるのです!